住所
大阪府大阪市阿倍野区北畠3丁目7-20
詳細情報
参拝時間 | 自由 |
---|---|
社務所/授与所 | 9:00~16:30 |
電話番号 | settings_phone06-6661-6243 |
ホームページ | https://www.abenojinjya.com/open_in_new |
主祭神 | 北畠顕家、北畠親房 |
創建時期 | 1882年 |
阿部野神社のご由緒
北畠親房公は第六十二代村上天皇の皇子、具平親王の子息である師房が源の姓を賜ったことに始まる村上源氏の血筋を引く方でございます。親房公は当時の学識の高い貴族である吉田定房・万手小路宣房と並び「後の三房」と称された一人です。また後醍醐天皇の皇子である世良親王の養育係を仰せつかったことからも、殊に天皇のご信任が厚かったといわれております。建武の新政下では鎮守府将軍となった御長子の顕家公と共に義良親王を奉じて奥州へ下向されます。その後、足利尊氏謀叛による二度目の京都攻めのため、後醍醐天皇が吉野御潜幸をされると、吉野朝(南朝)の中心人物として伊勢、あるいは常陸において、京都回復に尽力されました。後醍醐天皇の崩御後は跡を継いだ後村上天皇の帝王学の教科書として、常陸国の小田城で中世二大史論の一つである『神皇正統記』を著し、それ以外にも『職原抄』・『二十一社記』などを著して官職の本義や神社の意義を明からにされました。厳しい戦況下にあって親房公は我が国の歴史と伝統を明らかにして、大義を説き、道義を教えた数多くの著述は後世の人々に深い感動を与え、日本思想史上に大きな足跡を残しました。興国四年(一三四三)、親房公は吉野に帰り、後村上天皇を助け奉り、一度は京都を回復しましたが、再び京都を脱出して賀名生にうつられました。その後も国家中興に挺身されましたが、正平九年(一三五四)四月十七日、病にて薨じられました。御年六十二歳でした。
お祓い(神社・お寺)マップ