住所
香川県観音寺市粟井町1719-2
詳細情報
参拝時間 | 自由 |
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社務所/授与所 | 9:00~16:30 |
電話番号 | settings_phone0875-27-8223 |
ホームページ | |
主祭神 | 天照皇大神 |
創建時期 | 創建不明 |
粟井神社のご由緒
創建時期は不明。讃岐忌部氏がこの地を開墾したさい、氏神の天太玉命を祭ったのが始まりと伝えられる。「粟井」は阿波国または安房国から転じたという。かつては刈田大明神と称し、苅田郡(刈田郡、神田郡とも呼称)の由来となったという。かつての鎮座地は現在の鎮座地より南方約600mの所という。大同2年(807年)に焼失し、寛弘元年(1004年)に杉尾神社(現・粟井神社境内社杉尾神社)の地(現在地)に遷座したという。室町時代、藤目山の山頂には藤目城が築かれていた。天正6年(1578年)に長宗我部元親が藤目城主の斎藤下総守を調略・降伏させた。元親は藤目城に桑名太郎左衛門と浜田善右衛門を入れていたが、阿波の三好存保は配下の聖通寺城主・奈良太郎兵衛勝政にこれらの撃退を命じる。奈良氏は長尾大隅守・羽床伊豆守・香川民部少輔とともに藤目城を攻め、これを奪回。藤目城を奪い返された長宗我部勢は秋には今度は目線を変えて三野郡財田の本篠城(財田町)を攻略。そして、本篠城を出城にして冬には再び藤目城を攻め、これを再度掌中に収めた。これが元親の讃岐攻略の前哨戦となった。この兵火で粟井神社も焼失し、建物のほか、記録や宝物も失ったとされる。多くの香川県かの寺社がそうであるように戦火でどの勢力が行ったものか、或いは戦火ではない理由があるのか判然としないまま、寺社が焼かれたとの伝承か残っている場合はすべて長曾我部元親が行ったこととなっており、この寺も例に漏れることなく長曾我部が焼いたことになっている。後に、この藤目城二の丸跡が御旅所とされ、昭和初期まで利用していたという(現・粟井神社境内社藤目宮)。元和6年(1620年)生駒正俊により再建される。明治12年(1879年)に県社に列せられる。平成13年(2001年)、現在の社殿が築かれる。
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