住所
石川県金沢市舘山町キ1-7
詳細情報
参拝時間 | |
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寺務所/授与所 | |
電話番号 | settings_phone076-229-0228 |
ホームページ | https://eianji.p-kit.com/open_in_new |
御本尊 | 阿弥陀如来、釈迦如来、薬師如来、大聖歓喜天、愛染明王、不動明王、十一面観音、宇賀神明王 |
山号 | 鶴舞山 |
院号 | |
宗派 | 真言宗醍醐派 別格本山 |
開山・開基 | 山東霊光上人 |
創建時期 | 室町幕府の足利九代将軍義尚時代に創建 |
鶴舞山永安寺の宗派(真言宗醍醐派)
真言宗醍醐派の歴史は醍醐寺の開創に始まる。聖宝が如意輪観音・准胝観音を彫刻して深雪山山上に祀ったことが醍醐寺の起源となった。醍醐天皇・朱雀天皇が誕生されるに当って、皇室より聖宝に対して祈祷の依頼があり、無事に出産、誕生されたために、皇室の帰依を得るようになった。この後より、伽藍の整備が整い、現在の醍醐寺の基礎が確立した。平安時代、摂関政治が隆盛を極めるころには、皇室の保護が薄くなった。院政期になると、醍醐天皇系統の宇多源氏・村上源氏が財政的・人事的にも醍醐寺を護持する中心となり、伽藍・諸堂の拡充、醍醐寺座主を輩出することになった。真言宗の事相(真言密教の儀礼・実践方法)の法流の一つである小野流の研究が盛んであった。事相研究のなかで、特に図像研究においては、中心寺院として知られていた。応仁の乱では伽藍の多くを失い、衰微した時期があったが、当時の座主であった義演が豊臣秀吉と友好的な関係であったため、豊臣氏が財政的な援助を行って伽藍を建立し、本格的な復興を果たした。明治時代に入ると、明治新政府に寺領・特権を返上して衰微したが、やがて文化財保護が重要視されるようになると伽藍の整備・寺宝の保護が図られるようになる。しかし、明治政府の宗教政策により、他の真言宗宗派と1879年(明治12年)に合同し、東寺の傘下に入って定額寺・大本山として、醍醐寺・三宝院がともに列した。1900年(明治33年)9月、醍醐寺を本山とする真言宗醍醐派として独立する。醍醐寺は、真言宗系修験道を支配する寺院であったが、明治に入って修験寺院の廃止が決定すると、寺院内に恵印部を設けて修験寺院の統制を行った。が、1919年(大正8年)には恵印部を廃し、修験寺院を末寺とすることになった。1941年(昭和16年)3月、古義真言宗・新義真言宗系の宗派が政府の政策によって合同し、大真言宗が成立する
戦後、1946年(昭和21年)、大真言宗より独立し、真言宗醍醐派として現在に至っている。
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