住所
山口県山陽小野田市有帆325-1
詳細情報
参拝時間 | 自由 |
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社務所/授与所 | 9:00~17:00 |
電話番号 | settings_phone0836-84-1138 |
ホームページ | |
主祭神 | 熊野権現 |
創建時期 | 1972年 |
熊野神社のご由緒
熊野神社とは熊野三山(熊野本宮大社<本宮>、熊野速玉大社<新宮>、熊野那智大社<那智>)の祭神である熊野権現の勧請を受けた神社のことである。熊野詣の盛行や有力者による荘園の寄進、熊野先達の活動により全国に熊野信仰がひろまったことにより、熊野三山の祭神を勧請した神社が全国に成立した。熊野三山の祭神である熊野権現はその主祭神である熊野三所権現だけでなく、本宮と新宮では他に9柱の祭神が祀られて十二所権現と呼ばれ、那智はさらに1柱多く祀られて十三所権現と呼ばれ、それらも含まれている。熊野三山の祭神を勧請するといった場合、三所権現のいずれかひとつの神ないし三神の全て、または十二所権現の全てないし若宮のみを勧請する場合や、九十九王子の中でも重要な五体王子を勧請するものもあり、それら全てを含めて熊野神社とした場合、その数は三千余に達するという。熊野神あるいは熊野権現を勧請した全国各地にある神社は熊野神社と呼ばれることもあれば、熊野神あるいは熊野権現が12柱の祭神から構成されていることから、十二所神社または十二社神社と呼ばれることもある。有史以前からの自然信仰の聖地であった熊野(紀伊国牟婁郡)に成立した熊野三山は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての中世熊野詣における皇族・貴族の参詣によって、信仰と制度の上での確立をみた。「熊野御幸(くまのごこう)」と呼ばれる熊野詣を最初に行ったのは延喜7年(907年)の宇多上皇であり、次いで正暦3年(992年)の花山上皇である。しかしながら、中世熊野詣を担った平安京からの参詣者は後鳥羽上皇をはじめとする平安京の皇族・貴族と上皇陣営に加勢した熊野別当家が承久の乱において没落したことによって、院の参詣は実質的に終焉し、貴族による参詣も13世紀過ぎまでのことであった。かわって、承久の乱以後の鎌倉時代には新たな参詣者層として地方の武士が登場し、15世紀ごろには一般民衆が最盛期を迎えた。室町時代から戦国時代にかけて熊野山領の荘園からの収入が減退したことが熊野先達・御師の発達を促し、熊野先達の活動が全国に及んだことで熊野信仰の伝播はいっそう促進された。
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