住所
佐賀県鹿島市納富分2011
詳細情報
参拝時間 | 8:00~16:00 |
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寺務所/授与所 | |
電話番号 | settings_phone0954-62-3402 |
ホームページ | https://www.tanjoin.net/tera/open_in_new |
御本尊 | きりもみ身代不動明王、興教大師覚鑁聖人 |
山号 | 密厳山 |
院号 | 誕生院 |
宗派 | 新義真言宗 |
開山・開基 | 足利義満、定成 |
創建時期 | 1405年 |
大本山誕生院の宗派(真言宗)
平安時代、僧侶の堕落停滞による真言宗没落の危機が発生し、高野山金剛峯寺の高僧だった覚鑁が宗派建て直しの緊急策を敢行。しかし現状維持を望む保守派(本寺方・金剛峯寺方)と覚鑁派(大伝法院方)による決定的な対立が発生。その結果、覚鑁派は高野山を去り、大伝法院の荘園であった岩手荘の豊福寺に拠点を移す。根来での覚鑁の活動がここにはじまる。1143年(康治2年)の覚鑁入寂後、覚鑁派は再び大伝法院を高野山に戻したが確執は収拾せず、145年後の1288年(正応元年)、同派の実質的指導者であった頼瑜は門弟を連れて根来山に戻ると共に覚鑁の教義を発展させ、それまでの教義と一線を画した「新義」を打ち立て新義真言宗が確立する。中世後期の戦国時代に入り、根来寺は規模が拡大し僧兵集団「根来衆」による武力強化が著しく、不穏分子と判断した豊臣秀吉は1585年(天正13年)春、遂に大軍で根来山を攻撃、寺は多宝塔、大師堂以外は完全に破壊され多くの僧侶は処刑された。寺宝はおろか、かつて「教学の山・根来」とまで称された多くの新義文献も灰燼に帰し、新義真言宗は事実上壊滅状態となった。しかし混乱の中、一部の僧侶は奈良の長谷寺や高野山に避難し難を逃れた。関ヶ原の戦いのあと、高野山に逃れた一派は徳川家康から豊臣秀吉ゆかりの寺を与えられ、京都東山に智積院を再興することになる。結果、豊臣秀吉の宗教政策は総本山根来寺を智山派・豊山派に二分し、勢力を分散させ一大宗教都市根来を衰退させることとなった。江戸時代には復興が許されたものの分散させられた僧侶は根来に戻ることは少なかった。江戸時代前期、豊臣政権の清算の観点から、徳川家の恩赦を受けて新義真言宗は復興を果たし、根来寺の再興と共に覚鑁は東山天皇より「興教大師」の称号を追贈された。時の将軍徳川綱吉と大きく関わった隆光は長谷寺で修行している。
江戸後期は法住 - 法恕 - 興雅 - 栄性 - 信海 - 真雄 - 児玉浄雄と続き、明治維新後、根来寺に座主称号が復活する。中興第一世座主は豊山派能化、守野秀善が就いたが、これまでの座主は醍醐寺または仁和寺の門跡が就任することが多く、そうした外部の座主とは別に根来寺では学頭を立てるのが慣例であった。
明治政府の宗教政策により、他の真言宗宗派と1879年(明治12年)に合同する。1886年(明治19年)には根来寺を新義派の根本道場として選定した。
1900年(明治33年)9月、新義真言宗智山派(智積院)・新義真言宗豊山派(長谷寺)が真言宗より独立し、新義真言宗智山派及び新義真言宗豊山派の能化が3年交代により大伝法院座主を勤めることとなった。智豊交互に勤める風習は、戦国時代、玄誉 - 日秀 - 頼玄 - 玄宥 - 専誉あたりから見られるものである。第二次大戦後、1953年(昭和28年)、宗教法人法の改正により根来寺を総本山とする新義真言宗が創設されるにいたり現在に至っている。
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