お祓い(神社・寺) 福島県

隠津島神社

おきつしまじんじゃ

住所

福島県二本松市木幡治家49


詳細情報

参拝時間 自由
社務所/授与所 9:00~17:00
電話番号 settings_phone0243-46-2869
ホームページ https://okitushima.com/open_in_new
主祭神 瀛津島姫命、田心姫命、湍津姫命
創建時期 769年

隠津島神社のご由緒

社伝に因れば、神護景雲3年(769年)に安積(阿尺)国造の丈部継足(はせつかべのつぐたり)が、3男である継宣(つぐのり)を社司(祭祀者)に定めて山中に勧請したのが創祀で、大同年中(9世紀初頭)に平城天皇の勅願により神仏が習合した両部神道に基づいて「隠津嶋神社弁財天」と称するようになったといい、これを『延喜式神名帳』陸奥国安積郡に「隠津嶋神社」として登載された式内社と見る説もある(後述)。一方、近世迄は木幡山山中に栄えた治陸寺を別当とし、同寺は同じく大同年中の開創と伝える天台宗寺院であったが、近世以前においては天台寺院とはいえ延暦寺に属すのではなく羽黒修験の影響を蒙った一山寺院(中核寺院と複数の寺社から構成される独立独派の寺院組織)であったと考えられ、それらを併せて考えると、神護景雲の神社創祀や大同の寺院開創の真偽はともかくも神霊の籠る古来の聖地に勧請された神社がその後修験道と習合したものと思われる。例えば、かつては木幡山山頂に立岩(巨岩)を背にした蔵王権現を祀る蔵王宮があり、その付近に営まれた経塚(蔵王経塚)は藤原時代末期(平安時代後期末、12世紀)に複数回に亘り造営されたものと推定され、立岩は磐座であって修験道の聖地とされる奈良県金峯山(山上ヶ岳)山頂にある蔵王権現湧出岩に見立てた祭祀が行われたものと思われ、経塚の経営も末法思想の流行に伴う弥勒下生信仰(弥勒菩薩の下生信仰)に基づいた蔵王権現信仰と如法経による供養とが相俟って行われたものと考えられるので、これは古来の聖なる山に蔵王権現を祀りその守護の下に経典を埋納したものと考えられる。なお、『三宝絵詞』等によると金峯山は弥勒菩薩の浄土で黄金が埋まり蔵王権現は同菩薩下生の時迄これを守護するとの説が載るが、一方で弁才天にも黄金を始めとする授福を司る神徳が期待されており、そこから極めて現世利益的な希求を媒介とした蔵王権現信仰と弁才天信仰との習合が考えられるので、弁才天の祀られた木幡山に埋経が行われた理由も窺い得るものとなる。平安時代の後期、治承から康平年間(11世紀中半)にかけての前九年の役において安倍氏征討の為に朝廷から派遣された源頼義、義家父子が当神社に祈願を込めたとの伝えがあるが、中世以降は専ら治陸寺による一山支配に包摂され、治陸寺とともに全山が歴代領主層の崇敬を受けている。『松藩捜古』に因ると文明14年(1482年)に当時の領主で石橋(塩松)義衡の事と伝えられる源家博を大檀那として社殿の造営が行われており、その後は大内氏からの崇敬を受け、天正5年(1577年)の棟札によると塩松城城主、大内義綱が大檀那として造営に当たっている。天正13年(1585年)の伊達政宗の仙道(中通り)侵攻の際に兵火で社殿が焼き払われた結果、弁才天の尊像1躯、宝塔1基(現境内三重塔)、後冷泉天皇からの下賜と伝える治陸寺に対する勅願寺の額のみを残す迄に衰微したものの、その後の領主により再興され、会津藩に封された蒲生秀行は杉数千本を献植し、江戸時代の二本松藩藩主加藤明利は寛永14年(1637年)に木幡山の山林を保護する禁制を発し、元文頃(18世紀前葉)に纏められた「弁才天宮万書上帳」に因れば治陸寺は近世期には本坊12坊新坊12坊を構えた天台宗の大寺院であった。弁才天宮は加藤氏の後に入封した丹羽家によって祈願所と定められて安達郡東部一帯の総鎮守とされ、明暦元年(1655年)に藩主光重が社殿の修復と社領50石を寄進、同長次が貞享3年(1686年)に社殿を再建し、寛政年間(18・19世紀の交)には同長貴が社殿の造営を行う等、江戸時代を通じて同家により崇敬された。元禄9年(1696年)の「木幡山相改帳」等によると、弁才天宮には本殿、三重塔(現天満神社)、薬師堂(同医薬神社)、千手堂(同養蚕神社)、門神堂(同門神社)、羽山権現宮(同羽山神社)や現存はしないものの虚空蔵堂や筑山権現宮といった堂塔があり、本殿には御前立(前立(まえだて)本尊。本尊が秘仏とされる場合、その代わりとして拝観用に造立した本尊)の弁才天と十五童子の木像が祀られていた。江戸時代中期以降になると次第に弁才天宮社人であった阿部氏が擡頭し、治陸寺の学頭と一山支配を廻る係争を起こすようになり、『木幡山志』に元文3年(1738年)、寛保2年(1742年)、明和3年(1766年)、寛政12年(1800年)の寺社奉行による裁許状4通が残されている。阿部氏は元禄12年(1699年)に神祇管領長上吉田兼敬から官位(吉田官)を得ており、神社の本所である吉田家の権威を背景に、式内社「隠津嶋神社」である事を積極的に主張して治陸寺学頭と対立し、宝暦13年(1763年)の「安達郡神祇道宗門御改帳」には「延喜式内安達郡東郷惣鎮守、木幡山隠津嶋神社弁財天三女神」と記されているが、明和度と寛政度の裁許状において治陸寺側から「隠津嶋神社」という神社号に対する異議が出されており、寛政12年の寺社奉行の裁許により「隠津嶋神社」号は停止して「弁財天」を神社号とする事と、以後は治陸寺と阿部氏と「和融し祭祀勤務」する事とが定められた。明治2年(1869年)に神仏判然令を受けて治陸寺との関係を断ち、弁才天宮は「厳島神社」と改称する一方で治陸寺は廃寺とされ、治陸寺の住職亮澄が還俗して神主となったが、翌3年に阿部氏が神主(現宮司に相当)に復した事で治陸寺系の支配は完全に終わった。同9年11月に郷社に列し、同35年(1902年)に改めて現社名に改称し、同40年8月(又は7月)に県社に昇格した。なお、昭和15年(1940年)に神主阿部家の居宅及び倉庫が焼失し、その際に古文書や記録が失われている。



お祓い(神社・お寺)マップ




心霊気違全国総合マップ

落書きや破壊行為、不法侵入(住居侵入罪)は犯罪となりますので絶対に行わないようお願いいたします。迷惑行為などが確認された場合は「CONTACT」から報告をお願いいたします。悪質な内容が確認された場合は記事削除となる場合もございます。

-お祓い(神社・寺), 福島県
-, , , , , , , , , , , , ,