お祓い(神社・寺) 栃木県

鷲子山上神社

とりのこさんしょうじんじゃ

住所

栃木県那須郡那珂川町矢又1948


詳細情報

参拝時間 日の出より日没まで
社務所/授与所 9:00~16:00
電話番号 settings_phone0287-92-2571
ホームページ https://www.torinokosan.com/open_in_new
主祭神 天日鷲命、大己貴命、少名彦命
創建時期

鷲子山上神社のご由緒

大同2年(807年)に矢又村(現・栃木県那須郡那珂川町矢又)の大蔵坊宝珠上人が阿波国から天日鷲命を勧請したのが鷲子山上神社の始まりであるとされる。当時の社名は「鷲権現」であったが後に鷲子山上神社に改称した。また創建の地は朝日岳(朝日嶽、境内にある本宮神社の位置)であった。地元の伝承では製紙に成功したため製紙の神である天日鷲命を祀ったという。山麓の常陸大宮市鷲子では製紙業が盛んであったようであり、「鷲子」という地名は天日鷲命に由来するという説がある。天長5年(828年)、疫病の流行のため、平癒を願い大己貴命と少彦名命を合祀した。この頃の信仰圏は広く、常陸国・下野国・陸奥国に及んだとされる。八溝山地は修験道の修行場として名高く、八溝山地の中でもひときわ高い山である鷲子山は修験者から霊山として崇められ、神社は厚い信仰を集めた。建久8年(1197年)には源頼朝が社殿を再建し修理料の名目で15貫文を贈った。息子の源実朝も建保2年(1214年)に銭を献納している。南北朝時代には佐竹貞義の弟である佐竹義高が「鷲子別当」と称され、この地域に権勢を振るっていた。現存する最古の棟札は天文21年12月3日(ユリウス暦:1552年12月18日)のものであり、常陸国側の領主である江戸右近大夫通有と下野国側の領主である武茂守綱が協力して本殿を復興したと記されている。同年、火災により鷲子山頂に移転したとされる。天正15年(1587年)には佐竹義胤から25町歩の寄進を受けた。慶安元年10月24日(グレゴリオ暦:1648年12月8日)、徳川家光は常陸国鷲子村(現・常陸大宮市鷲子)の10石と下野国矢又村(現・那珂川町矢又)の10石の合わせて20石の朱印地、100石の除地を認めた。江戸時代は鷲子山上神社の朱印地であった常陸国鷲子村と下野国矢又村の鎮守とされた。これらの村々以外からも製紙関係者を中心に下野国那須郡、常陸国那珂郡・久慈郡から崇拝された。また下野国15村の修験総社でもあり、聖護院系の伍智院が別当として神社に奉仕した。伍智院には徳川光圀が宿泊したと伝えられ、鷲子山上神社で名勝を選定した。光圀の定めた名勝は鷲子十景と山中七奇で、鷲子十景は「海天旭日・富士晴雪・晃山霽色・烏山城塁・鹿浦睡眺(鹿浦眺望)・村家炊煙・野寺晩鐘・雨堤暁晴・杉林初月(杉村初月)・河川帆景(那珂帆影、河川帆影)」、山中七奇は「社内神酒(神酒)・井中石亀(井戸石亀)・禁不浄(禁不祥)・神烏雌雄(神鳥雌雄)・三穂葦(三穂草、三本蘆 在矢又村)・三房柿(柿実 在建武村)・阿良左巨(阿良佐巨、阿良沙巨)」である。伍智院は明治維新に際して廃絶し、伍智院別当を務めていた家は長倉姓に復し、引き続き社務に務めた。1871年(明治4年)、鷲権現・鷲子権現・鷲子山神社など様々な呼ばれ方をしていた社名を「鷲子山上神社」に統一した。1872年(明治5年)、近代社格制度に基づき郷社に列せられた。1979年(昭和54年)に国土調査が行われ、栃木県・茨城県双方の立会いの下、県境を示すピンが打ち込まれた。これは周辺の巨木がどちらの県に所属するかを確定する必要があったための措置である。また1990年(平成2年)には氏子からの申し出を受け、栃木県・茨城県が同時に調査を行った末、本殿などを同時に県指定有形文化財に指定した。





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